古木匡司

 山崎さんからバトンを引き継ぎます古木匡司です。苫小牧青年会議所には、1989年に入会させていただき、1998年卒業いたしました。ちょうど10年お世話になったことになります。私にとってこの10年間は、恥ずかしいのを承知の上で言いますが、青春そのものだった気がします。
 さて、「OB徒然日記」の寄稿文を書く前に、お詫びをしなければなりません。依頼を頂戴してから約一ヶ月間放置してしまいました。心の片隅では、早く書いてしまわなければと思いながらも、文才も根性も無いためこのような不始末を起こしてしまいました。関係各位、特に何度もご連絡をいただきました担当の松本さんには、ご迷惑をお掛けいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 こうした悶々とした日々を過していた間に、9月オープン例会に出席する機会をいただきました。「市民参加条例」をテーマに行われたパネルディスカッションに触れてみて、久しぶりに青春時代に戻りました。例会の締め括りに岩倉市長よりJCの大先輩として現役メンバーの皆さんにエールが送られました。それは、ご自身が現役バリバリだった今から二十数年前、今回の例会テーマにあるような市民参加条例の影も形も無い時代に、「苫小牧青年団体協議会」なる市内の青年が集う市民グループを青年会議所がその核となって立ち上げた際、市に提言を行いその具現化された一つにオートリゾートアルテンがあるという実例の紹介とともに、だからこそ条例が整った今、JCは持ち前のフットワークとヘッドワークを駆使して、苫小牧市に提案や意見をどんどん出して欲しいというものでした。岩倉大先輩の熱弁に引き込まれながら、「JCってやっぱりいいな。」という気持ちが大きくなりましたが、岩倉先輩のエールを受けたメンバーにちょっと元気が足りないなと感じられたのは少し残念でした。
 前置きが長くなりましたが、これから昔話を少ししたいと思います。この「日記」の前寄稿者山崎さんに、すっかりLOMの暴れん坊の様に紹介された私ですが、あの件で出てくる「これでいいのか!」なる発言は、実際本当にあったかどうかは定かではなく、いわば山本高広が真似をしている織田祐二の「キター!」みたいな物と考えてくださって良いと思います。何はともあれこの年1993年は、理事長、実行委員長の下LOM一丸となり全道大会主管という大きな事業に取り組んだ年であり色々な出来事がありました。当時私は専務理事を務めさせていただいておりましたが、何せ大会主管は25年振りのこと、物事が暗礁に乗り上げるたびに、若さから、青さから暴走しメンバーに迷惑掛けることもしばしばあったかと思います。その様なことから前述の「これでいいのか」発言事件は、真偽不明の逸話としてごく一部(一人)の方がいまだにおっしゃっているのだと思います。
 全道大会について書き始めると、四部構成の十回連載ぐらいになってしまいそうなので別の機会としまして、今回はこの年あったもう一つの大きな事業についてご紹介致します。
 1993年は、苫小牧青年会議所創立40周年でした。大会主管の陰に隠れる様に執り行われましたが、記念式典並びに記念懇親会の開催、記念誌の発行、そして市民向け記念講演会の開催と大きく三つの事業を行いました。先の二つは、概ねスムースに進みましたが、記念講演会についてはなかなか想うように進みませんでした。それは、講師選定の問題です。私たちは、年度当初よりこの記念講演会の講師として、前年9月にスペースシャトルエンデバーで宇宙飛行を果たしたばかりの毛利衛さんをと考えていました。
 しかし、日本中が『毛利フィーバー』真只中です。私たちJCは、苫小牧市との調整(ここにもドラマがありました)に時間を要したこともあって手を挙げるのが遅くなってしまい、結果毛利さんを講師とする記念講演会の年度内の開催は難しいという流れになっていました。当時の理事長、田中正彦さんはそれでも諦めませんでした。正確に言うと、講師には毛利衛さんしか考えられなかったし、考えていなかったというのが実情です。何百件もある講演依頼の中で、私たち苫小牧JCの依頼を上位に上げて、何とか9月から10月にかけて開催できる様JCの豊富な人脈を頼りに、どこかにコネは無いかと奔走しました。その様な時に辿りついたのが、日本宇宙少年団です。漫画家の松本零士氏が理事長に就き、1986年に設立されております。この日本宇宙少年団を窓口にすることで、話が通りやすいというのです。そして何と苫小牧にもこの分団があるというではありませんか。灯台下暗しとはこの事、いやただの勉強不足だったのかもしれませんが、何はともあれこの情報に飛び付きました。当時苫小牧分団でリーダーをしていた藤島豊久先輩(現在は副分団長)に相談に行くと、適切なアドバイスを頂くと共に日本宇宙少年団(YAC)のレクチャーもたっぷり受けなければなりませんでした。このレクチャーでさらに驚きの事実を知ることとなります。YAC苫小牧分団は、苫小牧JCが創ったというのです。いや正確に言うと苫小牧青年会議所がその活動の中心となった苫小牧青年団体協議会が提唱したことで設立されたというのです。そして1987年の苫小牧分団設立時には、苫小牧JC主催の講演会で松本零士氏が講師をされているのです。本当に自分自身の勉強不足を恥じ入るばかりでした。ところで、毛利衛さんを迎えての苫小牧青年会議所創立40周年記念講演会は、9月25日苫小牧市総合体育館に主に小中学生三千人を集めて無事開催することができました。YACの存在に感謝したのは言うまでもありません。それが高じて、私自身がYACのリーダーになってしまう顛末もアナザーストーリーです。ただ昨年、『洞爺湖サミット』関連事業として行われたYAC苫小牧分団主催の「宇宙サミット」では、たくさんのJCメンバーにお世話になりました。改めまして御礼申し上げます。
 だらだらと綴ってしまい、何を皆さんに伝えたいのか解らなくなってしまいすみません。ただどうして40周年記念事業のことを書く気になったかというと、9月例会に出席して、岩倉市長の言葉の中から、「苫小牧青年団体協議会」というキーワードが出てきたからです。「日記」の原稿依頼を頂いてから、本当にたくさんの出来事と思い出のあった10年間のJCライフの中で、何に的を絞って書けば好いのか迷いに迷っていた時に、キーワードが入ってきました。
 この「OB徒然日記」の趣旨である、温故知新の精神はすばらしいと思います。私も改めて実感しました。そして出来ることなら、日記という寄稿だけではなく、ほんの偶にでいいですから、直接先輩たちから話を聞いてみてください。きっと「目から鱗」ハッと気がつくことが、いっぱいあることでしょう。自分もその立場だったときは、ちょっと鬱陶しいかったですけれどね。
 これ以上書いていくと、ますます「ウザい」OBになりそうですのでこれにて終了とさせて頂きます。乱筆乱文お許し下さい。ありがとございました。

古木先輩 本当にありがとうございました! JCのまちに対する想いや、JCのネットワークのすごさに、改めて感心させられるばかりです。
中でも松本零士さんや毛利さんとの繋がり、そして小・中学生3千人の来場者を呼び込むあたりは圧巻です! 現役一同さらに志高く持たなければなりませんね。
次回担当は、1992年卒業されました藤島豊久先輩です。
どうぞご期待ください。

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