阿部 喜朗
平成20年11月17日
「徒然日記」なるもの初めて板谷さんから耳打ちされ思い悩んでいたところ、11月に入り高橋理事長、乾事務局長がお見えになり、引き受けさせられました。
卒業して26年、丁度苫小牧青年会議所の55年に及ぶ歴史の中程に私は在籍しておりました。何かを思い出すとしたら、やはり全道大会の事でしょうか。
昭和53年、松井理事長の下、第27回北海道地区大会の主管が廻ってきました。私は式典部会長でした。7月8日13:00~15:00開会式の担当です。考えることが山程ありました。しかし、これには良い教科書がありました。昭和44年の地区大会で使われた石田 貢先輩のシナリオであります。当事石田先輩は市民会館が完成し、その柿(こけら)落しの地区大会を仕切って以来、宮田 軍一・近藤 重明 両先輩と3人のチームを作り、イベントをプロのごとく請負っている観がありました。その手書きのシナリオはまことに緻密であり、非常に参考になりましたが、先輩特有の文字を判読するのに苦労した記憶があります。
舞台はメンバーの大槻君に描いてもらいました。会場から見ると赤のジュータンと蹴込みのコントラストが生きて絵になったと思います。そして登壇者は最前列のみテーブルを設置、後列は椅子のみとしました。意図は圧迫感とスマートさからですが、これは前日のリハーサルで地区協のお偉方から足が組めないとか何とか大変なブーイングが出ました。最後は時の村井会長が「苫小牧の言う通りにしろ!」との一言で納まりました。
舞台の背面は凝りに凝って、当事若草小の池本良三先生に依頼して白のスタイロフォームを熱線で切り取り壁画としました。折角の大作も光線の当たり具合が難しく正面から迫力不足の気がしました。
オープニングは音楽、フィルム、ナレーション等、一つひとつに思い出があります。緞帳の幕開けの曲は、藤井先輩と第一洋食でコーヒーを飲みながら、入会前の山下君の意見も聞き「ツラツウストラはかく語りき」(2001年宇宙の旅のテーマ曲)の冒頭部にしました。それとナレーションを札幌のスタジオでテープにしたのですが、プロの声はさすがに低音の響く良い声だと思い知らされました。難しかったのは、山の内慎太郎君が作った詩の朗読に使った効果音です。イメージは西洋の鐘でカーンカーンカランカランという乾いた音ですが手当出きず、同じ鐘だとしてお寺のリンを試しました。どうしてもゴーンゴーンチーンチーンとなり相応しくなかったかと思います。
出演者には数度のリハーサルなど、司会の岩倉博文君始めハードトレーニングを課しました。私は女房に作らせたシンボルマーク入りの前掛けをし、ストップウォッチを片手に時間あわせに精を出し、当日は奇跡のように2時間丁度で終えました。思えば1年前の釧路大会で次年度PRをした時に始まります。その時は「花の応援団」の出し物に前菜として松の廊下を歩む裾の布ズレの効果音を出すためワイヤーマイクを歯ブラシでこすり、音取りをしました。ザー・ザーと。
長い一年間でした。
ついでながら、時の日本JCの会頭は麻生さんでした。純白のスーツを着こなしカッコ良かったと村井祐子女史が語っています。感受性が豊かであった頃です。そしてヴィトンのバッグを小脇に抱えて歩いていたとも申しておりますが、ちょっと怪しいと・・・
ご記憶の方は彼女にTELして下さい。
ともあれ、各人各様にそれぞれ全力を尽くし大成功に終わりました。直会は感激で涙・涙・涙。苫小牧JCはまさに一つでありました。
私もこれで心おきなくスリーピングに入れると思っておりました。しかし、運命はそうなりませんでした。
現役の皆様、卒業まで楽をしようなどと考えたら間違います。最後迄全力投球しましょう。頑張れ!
次の紹介者 : 氏名 大津山 峻 先輩です。
【事務局より】
当時の地区大会の苦労話、大変ありがとうございました。2004年度に地区大会を苫小牧にて開催したときも非常に苦労し、昔と同じように終了後の団結力は素晴らしいものがありました。大きな事業を成し遂げる苦労と、達成感は昔から変わらないんだと感じました。貴重なお話ありがとうございました。
次は阿部先輩からご紹介いただきました大津山 峻先輩です。お楽しみに!!